nitro forever
その日、
August str.にある本屋に日本のファッション誌があると、
日本料理店ささやのおにいさんから聞き、一人で少し早めに出かけた。
SバーンとUバーンを乗り継ぎ、ヴォーグとやら2冊を30ユーロで買った。
病院で退屈そうにしているnitroは、
「高いけー!買わんでいいって!!」と言っていたのだけれど、
どんな些細なことでも、できることは全てしたかった。
冬のベルリンは、夕方4時で暗くなる。
病院に着き、薄暗くひんやりとした廊下を歩いて病室に入ると、
昨日までnitroが寝起きしていたベッドに彼女の姿がなかった。
ナースステーションでたずねると、まだ若いアシスタントドクターがあわてて駆け寄ってきた。
誰もいない小さな診察室へ通され、背もたれのある椅子に座らされた。
彼女との関係と、ドイツ語か英語ができるかどうかを確認した後、
お水を一杯、目の前に置き、ゆっくりと話しはじめた。
「悲しいニュースがある」と。
それから彼は、事の成り行きを丁寧に説明していたけれど、
まるで音を消したテレビのように見え、時がとまった。
何も言うことはなかったけれど、彼女が最後に苦しんだのかどうかだけを聞いた。
答えを聞いて、少しだけ救われた。
遅れて来たnitroの夫と最愛の息子たち。
11才の長男は体がちぎれそうなほど泣き叫び、
9才の次男は顔を真っ赤にして無言のまま大粒の涙を流し続けた。
ドクターたちは夜中の12時頃からずっと我々に連絡を取ろうとしてくれていたけれど、
前日まで何の問題もなかったnitroの夫の携帯電話が、どういうわけかその日から壊れており、
家の電話も鳴らず、状況を全く知らない我々は翌日のこのこと病院へお見舞いに行ったのだ。
今思うと、
夜中に子供たちを起こしたくなかったnitroの仕業だったのではないかと思う。
日本の家族に心配させまいと、病気の詳細を隠し続けたnitro。
危篤を知り、ドイツへ飛んだ。
死の淵をさまよい、しかし奇跡的に回復したnitroは、
「日本から天使が来た。じゃけえ元気になったんよ!家族のちからってすごい!
なんかね、感じるんよ。わたし、絶対復活する!」
と、目をきらきらさせながら興奮していた。
思いやりと、気遣いに満ちあふれた彼女の強さは最後まで変わることなく、
血を吐きながらも「心配しないで心配しないで」と我々に微笑んだ。
11月16日、午前0時過ぎに容態が急変し、午前3時、nitroは天国へ旅立った。
ちょうど10日後。
4人でベルリン火葬場へnitroを迎えにいった。
冷たい風が吹く芸術の街ベルリンの火葬場は、神殿のように美しく厳かな空気が流れており、
重い扉を開け中へ入ると一人の男性が奥から出てきた。
黒い硬質樹脂にメタルで打ち付けられた入れ物を手に。
息子たちが受け取る。
nitroは二人の息子たちを心の底から愛していた。
毎日抱きしめて、毎日キスをして、やさしさを教えながら、大事に育てた二人の息子たち。
彼らが、nitroを受け取り、抱きしめた。
遠く離れた場所で暮らす彼女との交換日記のつもりで始めたこのブログは、
ブログ作成についての何の知識もない彼女が毎日毎日少しずつ勉強しながら、
ファヴィコンにおいても一から手作りで仕上げた、彼女の最後の作品であり、3人の宝物です。
そして、何かの縁あってここへ来てくださる皆様との大切な出会いの場でもあります。
nitroは「世の中に偶然なし。全てが必然である。」という言葉を信じており、
世界中に住む方々とのここでの出会いをとても楽しんでいました。
我々のブログまで辿り着き、ここまで読んでくださった方々に感謝します。
そして皆様の幸せを心よりお祈り申し上げます。
これからも三姉妹日記をよろしくお願いします。

スペインに住むnitroの友人Auroraが、「彼女に見せたかった」ものだそうです。
世界中を旅し、自然を愛したnitro。
彼女がどのような人か想像していただける、一番の動画だと思います。
↓クリックでyou tubeに飛びます。(音あり)
Planet Earth Forever

August str.にある本屋に日本のファッション誌があると、
日本料理店ささやのおにいさんから聞き、一人で少し早めに出かけた。
SバーンとUバーンを乗り継ぎ、ヴォーグとやら2冊を30ユーロで買った。
病院で退屈そうにしているnitroは、
「高いけー!買わんでいいって!!」と言っていたのだけれど、
どんな些細なことでも、できることは全てしたかった。
冬のベルリンは、夕方4時で暗くなる。
病院に着き、薄暗くひんやりとした廊下を歩いて病室に入ると、
昨日までnitroが寝起きしていたベッドに彼女の姿がなかった。
ナースステーションでたずねると、まだ若いアシスタントドクターがあわてて駆け寄ってきた。
誰もいない小さな診察室へ通され、背もたれのある椅子に座らされた。
彼女との関係と、ドイツ語か英語ができるかどうかを確認した後、
お水を一杯、目の前に置き、ゆっくりと話しはじめた。
「悲しいニュースがある」と。
それから彼は、事の成り行きを丁寧に説明していたけれど、
まるで音を消したテレビのように見え、時がとまった。
何も言うことはなかったけれど、彼女が最後に苦しんだのかどうかだけを聞いた。
答えを聞いて、少しだけ救われた。
遅れて来たnitroの夫と最愛の息子たち。
11才の長男は体がちぎれそうなほど泣き叫び、
9才の次男は顔を真っ赤にして無言のまま大粒の涙を流し続けた。
ドクターたちは夜中の12時頃からずっと我々に連絡を取ろうとしてくれていたけれど、
前日まで何の問題もなかったnitroの夫の携帯電話が、どういうわけかその日から壊れており、
家の電話も鳴らず、状況を全く知らない我々は翌日のこのこと病院へお見舞いに行ったのだ。
今思うと、
夜中に子供たちを起こしたくなかったnitroの仕業だったのではないかと思う。
日本の家族に心配させまいと、病気の詳細を隠し続けたnitro。
危篤を知り、ドイツへ飛んだ。
死の淵をさまよい、しかし奇跡的に回復したnitroは、
「日本から天使が来た。じゃけえ元気になったんよ!家族のちからってすごい!
なんかね、感じるんよ。わたし、絶対復活する!」
と、目をきらきらさせながら興奮していた。
思いやりと、気遣いに満ちあふれた彼女の強さは最後まで変わることなく、
血を吐きながらも「心配しないで心配しないで」と我々に微笑んだ。
11月16日、午前0時過ぎに容態が急変し、午前3時、nitroは天国へ旅立った。
ちょうど10日後。
4人でベルリン火葬場へnitroを迎えにいった。
冷たい風が吹く芸術の街ベルリンの火葬場は、神殿のように美しく厳かな空気が流れており、
重い扉を開け中へ入ると一人の男性が奥から出てきた。
黒い硬質樹脂にメタルで打ち付けられた入れ物を手に。
息子たちが受け取る。
nitroは二人の息子たちを心の底から愛していた。
毎日抱きしめて、毎日キスをして、やさしさを教えながら、大事に育てた二人の息子たち。
彼らが、nitroを受け取り、抱きしめた。
遠く離れた場所で暮らす彼女との交換日記のつもりで始めたこのブログは、
ブログ作成についての何の知識もない彼女が毎日毎日少しずつ勉強しながら、
ファヴィコンにおいても一から手作りで仕上げた、彼女の最後の作品であり、3人の宝物です。
そして、何かの縁あってここへ来てくださる皆様との大切な出会いの場でもあります。
nitroは「世の中に偶然なし。全てが必然である。」という言葉を信じており、
世界中に住む方々とのここでの出会いをとても楽しんでいました。
我々のブログまで辿り着き、ここまで読んでくださった方々に感謝します。
そして皆様の幸せを心よりお祈り申し上げます。
これからも三姉妹日記をよろしくお願いします。

スペインに住むnitroの友人Auroraが、「彼女に見せたかった」ものだそうです。
世界中を旅し、自然を愛したnitro。
彼女がどのような人か想像していただける、一番の動画だと思います。
↓クリックでyou tubeに飛びます。(音あり)
Planet Earth Forever
